修証義の解説

修証義(昭和62年4月記述)

 修証義は曹洞宗の教団の僧侶や信者の人々の信仰の参考書として明治三十三年に編集されたものである。

 これは、日本曹洞宗の開祖である道元禅師の著書「正法眼蔵」から抜き出されたものであり、その内容すべては、道元禅師の思想を述べているのである。

 道元禅師は、今日までの日本人の哲学・思想の中でもっとも格調の高い優れた哲学思想を持った人だと云われ、この修証義や「正法眼蔵」は禅宗に属する人だけでなく、ほかの宗派に属する人々や多くの知識人、また一般の人々からも多く読まれているのである。

それは道元禅師の教えが禅宗とか曹洞宗とかいう狭い視野でとらわれたものではなく、自分の教えは仏法そのものであり、釈尊の教えをそのまま伝えるものであるという自覚に立っておられてからである。

道元禅師は釈尊の教えを物語などの方便を用いることではなく、そのまま
素直に釈尊生存時の原始仏教の立場の正系を伝えることに生涯をかけられたのである。

原始仏教をはじめとする釈尊の教え(仏教)は、いかなる時代いかなる地域のいかなる人々にも受け入れられるような普遍妥当性のある永遠の真理を述べたものであり、これは、仏教徒だけでなく、他の宗教の信者でも、また宗教に関心のない人々にもその教えは受け入れられうるものであります。

いわば品減が品減をして社会生活を送っていく上に必要なことを説いたのが仏教であり、それは倫理、道徳を含めた人間学に他ならないのであります。修証義もその人間学を説いたものを見てよいのであります。

修証義は全体五章三十一節からなりたっています。その組織は、第一章が総序となっていて修証義全体の序文であります。そこには仏教そのもの目的は何で
あるかを説き、人間に生まれて尊い教えを開くことの難しさを感謝すべきこと、無常の世界の中であるからせめてその教えを信ずべきことがのべられています。そしていよいよ仏教の信仰に入っていくためには、どのような準備が必要であるか、それは仏教者としてまず心得ておかなければならない因果の道理があります。 因果や善悪を否定するならば仏教の信仰に入ることができないからであります。

 第二章は、懺悔滅罪といい前の章で説かれたように因果や善悪を信ずるようになれば自己を反省し、今まで無知のために多くの悪事犯したことを悔いる懺悔の心が起こり、道徳的宗教的な良心を起こすことをのべています。

 第三章は、前の章の懺悔によって、心は洗い浄められ、誠心誠意をもって振興に入っていくことを説いています。

 ここで信仰に入るとは戒を受けることであります。 曹洞宗の信仰の中心は戒めを受けることであるから、この三章の受戒入位が修証義の中心をなしていることにもなります。

 そして受戒の中心は仏法僧の三宝に帰依することでありますが、その他に三聚浄戒・十重禁戒というものがあって、三宝帰依の戒を加えて全体で十六の戒めが説かれているのであります。

 第四章と第五章は、受戒によって信仰が確立した後に得られる信者の態度をのべたものでありまして第四章の発願利生は、自分が進行を得た上は、周囲のすべてのものを救済し、社会を平和で幸福な理想社会となすように願いをこめ、これを実現させることを説いたものであります。 第五章は、行持報思といい、信仰をもった者の生活は、周囲の社会から受けた恩義に報いるような日々の生活でなければならないとして報恩の生活についてのべたものであります。

修証義の「修証」とは「修証。一等」のことで修業がそのまま証悟(さとり)であり証悟はまた修行以外にはないという意で、これは道元禅師の特筆すべき考え方の基本であります。 他の宗派の仏教では修業することによってその結果として悟りを得ることや何らかの超能力的なものを目的としますが、道元禅師は本当の修業とは、さとりを目的とせず、修業そのものが目的でないとならないといわれています。

※水野弘元師「修証義」引用および参考